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フィンセント・ファン・ゴッホ


《ひまわり》1888年
油彩・キャンヴァス
100.5 ×76.5cm
1888年2月、パリから南フランスのアルルに移ったゴッホは、その年の8月、ゴーギャンのアルル到着を待ちわびながら《ひまわり》の連作に着手しました。敬愛するゴーギャンの部屋を「ひまわり」の絵で飾ろうと考えたのです。

ゴッホはアルルで7点の「花瓶に生けたひまわり」を描いていますが、この作品はそのうちの1点で、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《(黄色い背景の)ひまわり》をもとに描かれています。
ロンドンの《ひまわり》と同じ構図で描かれていますが、全体的な色合いやタッチなど、細かい部分はロンドンのものと異なり、ゴッホが複製ではなく色彩やタッチの研究のひとつとしてこの作品に取り組んでいたことがうかがえます。

この作品のキャンヴァスには、ゴーギャンがアルルで購入した目の粗いジュート地、つまりゴーギャンの《アリスカンの並木路、アルル》と同じ生地が使われています。

年譜

1853年
3月30日、オランダ南部のフロート・ズンデルトに、牧師の息子として生まれる。
1857年(4歳)
弟テオ生まれる。テオは後に画商となり、生涯にわたりフィンセントを経済的、精神的に支える。
1869年(16歳)
画商グーピル商会のハーグ支店で働き、多くの絵画に親しむ。
1873年(20歳)
グーピル商会ロンドン支店に栄転。
1874年(21歳)
下宿先の娘ウジェニー・ロワイエに求婚するが、断られる。聖書を読むことに没頭する。
1875年(22歳)
グーピル商会パリ支店に移る。
1876年(23歳)
グーピル商会を解雇される。イギリスで教師となるが、年末には辞職する。
1877年(24歳)
オランダのドルトレヒトで書店の店員となる。牧師を目指し、神学部の受験勉強を始める。
1878年(25歳)
神学部の受験をあきらめる。
ベルギーのブリュッセルにある伝道師養成学校に入学し、ボリナージュの炭坑町で伝道活動を始める。
1879年(26歳)
熱心する活動が常軌を逸しているとされ、教会から伝道活動を禁止される。
1880年(27歳)
画家になる決心をする。
1881年(28歳)
エッテンにいた両親のもとに戻る。ハーグに移り、従兄で画家のアントン・マウフェから絵を教わる。
従姉のケイ・フォスに求婚するが拒まれる。
1882年(29歳)
引き続きハーグでマウフェの指導を受けるが、意見が対立し決別する。
身重の娼婦シーンと一緒に暮らす。
1883年(30歳)
9月、オランダ北部のドレンテに移る。12月、両親のいるヌエネンに移る。
1885年(32歳)
ベルギーのアントウェルペンに移る。
1886年(33歳)
パリで働いていた弟テオのもとに転がり込む。
アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックやポール・ゴーギャンらと知り合う。
印象派を知り、色彩が明るくなる。浮世絵の影響が本格的になる。
1888年(35歳)
2月、南フランスのアルルに移る。
5月、「黄色い家」を借り、画家たちとの共同生活を構想する。
10月、ゴーギャンとの共同生活が始まる。
11‐12月、この頃《ひまわり》を描く。
12月、ゴーギャンとの言い争いがもとで、発作的に自分の耳の一部を切り取り、アルルの病院に入院する。
1889年(36歳)
1月、アルルの病院を退院し、制作を再開する。
5月、サン=レミの精神病院に入院する。たびたび発作に苦しむ。
1890年(37歳)
5月、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに移る。
7月27日、ピストルで自分を撃ち、2日後の7月29日に死去。
1891年
弟テオ、死去。
1892年
アムステルダムでテオの未亡人ヨハンナの采配でゴッホの展覧会が開催される。
1901年
パリのベルナイム・ジュヌ画廊で回顧展が開催される。
モーリス・ド・ヴラマンクら、後のフォーヴの画家たちが感銘を受ける。
1905年
アムステルダム国立美術館で、大回顧展が開催される。